市民
僕は,今までいくつかの話題を書く中で,匿名性の高くなった世の中に漠然とした不安を意識するようになりました*1。いろいろな局面でそのようなことを感じるのですが,今日もそんなことがありました。裁判所の弁護士控室で,多数の原告が共同で国を訴えた事件*2の原告団が気勢を上げていた中で,みんなが口々に「市民の視点で」「市民が見ている」「市民は許さない」と連呼していました。控え室は,ふだん弁護士が弁論の準備などをして静かに過ごすところなので,正直言ってうるさく,鬱陶しかったのも事実ですが,そこをぐっとこらえて少し考えてみました。「市民」って誰を指すのでしょう*3。*4。僕の感じたところでは,このような場合に使われる「市民」は「自分に近い主張をもった存在ではあるが,個性を持たず,誰でもない多数の者の総称」なのではないでしょうか。「市民」という看板は裁判所や弁護士会など,当業界でも多用するところですが,はっきり言って中身がないと感じます。安直な大義名分といってもいいでしょう。「市民」という冠の下にある主張は千差万別で納得できるのもそうでないのもあります。僕から見れば,「市民」などというつまらない冠を掲げたばかりに,その主張に主体性が失われていくような気がします。もし,この「市民」と言う言葉が,「主体性を表したくない」「匿名にしたい」という潜在的な意識の結晶であったとすれば,憂うべきことではないでしょうか*5。ところで,この話題,世界史をちょっと復習してみたくなりますね。